映画 『きみがくれた未来』

スポーツに限らず、マイナーな趣味を持っていると、それに少しでも関連する本や映画があればとびつきたくなるものだ。<br />少々のアラがあっても、それが取り上げられたということだけで満足し、評価も甘くなる──私にとってそういうものの一つがヨットで、ヨットが登場する本や映画は、ついつい人に紹介して薦めたくなる。

というわけで、クリスマスシーズンの映画に、ヨットが単なる小道具ではなく登場するものがあるのでご紹介。

『きみがくれた未来』12月23日から東宝系で全国ロードショー

予告編を見るかぎり、ヨットのシーンのクオリティは高い印象を受ける。

映画のサイトはこちら(予告編が見られる)。
http://kimi-mirai.jp/

なお、映画の公開にあわせて11月25日に原作本の翻訳が出た(角川文庫)。

映画の公開は12月下旬なので、さっそく買って読んでみた。

内容は予告編とはかなり違っていて、なんとも評価がしにくい。

そもそも、予告編で目を引いたディンギーレースのシーンや主人公がヨットレースの成績がよくて大学進学が認めれたという設定自体が原作になく、映画向けのようである。

写真は左が原作(ペーパーバック)、右が日本語版(文庫)。

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ちなみに、翻訳では、ヨット用語に関して、例によって旧態依然とした帆船用語が使用されていて(一般の辞書にはそれしか載っていないことが多いのでやむをえないけれど)、アメリカズカップを船の名前と間違えるとか、ヨットの知識がないためにおかしな表現になっているところも多々あって、ヨットがマイナーな存在であることをあらためて感じさせてくれる。

たとえば、
1. 主帆、2. 三角帆、3. 大三角帆、4. 操舵室(席)、操縦席、5. 客室、船室、6. 調理場、7. 羅針盤、8. 甲板昇降階段、9. 波よけ板、10. 動索

ま、文字のイメージでだいたいの見当はつくけど、いまどきのヨット乗りはこんな言葉はまず口にしない。大三角帆とか羅針盤とか、重厚なクルージング艇ならともかく、セールはケブラー、マストはカーボンの単独世界一周レース用の38フィートのスループには、あれれって感じではある。

というわけで、ヨットに関連した個所にあまりにも「あれれ」という部分が多いので、内容を確認するため英語版を取り寄せて確認してみた。

(訳語: ヨットで一般に使用する名称  原文の英語)の順
1. 主帆: メンスル/メインセール  mainsail  三角帆: ジブ jib  3. 大三角帆: スピン/スピンネーカー  spinnaker   4. 操舵室(席)、操縦席:  コクピット cockpit   5. 船室、客室:  キャビン cabin   6. 羅針盤:  コンパス compass   7. 甲板昇降階段: コンパニオンウェイ  companionway   8. 波よけ板: 差し板  washboard   9. 調理場:  ギャレー  galley   10. 動索:  ハリヤード  halyard

間違っているわけではないが、こういう基本的な細部の表現に違和感を感じると物語に素直に入っていきにくい。

もっとも、こういう印象を持つのは、実際にこういう言葉を使っているヨット乗りだけかもしれない。ヨット用語はほとんどがカタカナなので、ヨットに乗らない人には右のカタカナよりは左の漢字の方が少なくとも何のことか検討がつけやすいと(編集サイドで)判断したのかもしれないと、好意的にみようとしてみたものの、誤訳もけっこうあって、推薦したいのに推薦できないという、このもどかしさ、、、

英語版と日本語版を突きあわせて確認する時間も気力もないので、和訳で「???」の部分について、原文と照合してみよう。

まず、重要な登場人物の一人(ヒロイン)で、ヨットでの単独世界一周レース出場を控えたテス・キャロルについての説明の部分(文庫版50ページ)。

(引用)
そして、<マーブルヘッダー号>と<アメリカズ・カップ>号の船長で、この世で誰よりも大三角帆の裁断に通じている、テッド・フッドを崇拝するようになったのだ。
(引用終)

原文ではこうだ。
She worshiped Ted Hood, a Marbleheader and America’s Cup skipper, who know about more about striking a curve on a spinnaker than anyone on earth.
(英語版37ページ)

「<マーブルヘッダー号>と<アメリカズ・カップ>号の船長」というのが間違い。
「マーブルヘッド出身で、アメリカズカップ(という伝統のある最高峰のレース)で艇長(スキッパー)をつとめた経験がある」という意味。

いまどきのヨット乗りで「大三角帆」といわれてすぐにわかる者はほとんどいまい。スピンとかスピンネーカーといえば、すぐに通じる。風船を半分に切ったような形でふくらませる、カラフルで大きなセールを指す。

ちなみに、テッド・フッドは実在の人物で、高名なヨット乗りであり、同名の有名なセールメーカーの創業者でもある。写真はアメリカズカップをめぐる物語をテーマにした『至高の銀杯』

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次はテスがメインセールを上げようとして、途中で引っかかったために誰かがマストに登らなければならなくなった場面で、巨漢のティンク・ウェザービーとの会話(文庫版51ページ)

(引用)
「帆に上がって、ようすを見たほうがいいわね」テスが言う。
「押し上げてやろうか?」太鼓腹を叩きながら、彼が答えた。
「あそこまで上がれる力の持ち主なんて、いないわよ」テスはロッカーのひとつに近づき、ふだんヨットの側面掃除などに使う、平板を紐で吊っただけの構造のボズウェインズチェアを引っ張りだして、別の帆の動索に固定し、平板部分にすわった。
(引用終)

ここは二つおかしなところがある(厳密には三つ)。

まず「帆に上がって」というのは、マストに登って原因を調べる必要があるという意味で、帆に上がるという行為はないので「(マストを)あそこまで上がって」くらいでよい。

ま、ここはそう目くじらをたてるところではないが、次にティンクの台詞とテスの二つ目の台詞がかみあっていない。原文を見ると
"better get up there to take a look", she said.
"Want to hoist me?" he said, patting his belly.
"Nobody’s that strong." She walked over to one of the lockers, pulled out the bowswain’s chair, fastened it to another halyard, and positioned herself on the wooden sheet.
(英語版72ページ)

ここは、訳文にあるようにティンクがテスを押し上げてやろうかといっているのではなく、自分がマストに上ろうか(自分が登るからウインチで引き上げてくれるかい)と言っているのである。それが、あんたみたいな大男を引き上げる力のある者はいない、というテスの返事につながるわけだ。

むろんティンク自身も自分は巨漢で、自分が登るよりは体重の軽いテスがマストに登って自分は補助にまわる方が現実的だと思っているし、テスもそのつもりでいることはお互いにわかってはいるのである。

とはいえ、タメ口をきいてはいても、いかんせん、テスは彼の上司(部下と社長)という間柄なので、自分から彼女にマストに登れとは言いにくい──という場面なのだ。

もう一つは「ヨットの側面掃除などに使う、平板を紐で吊っただけの構造のボズウェインズチェア」というところ。

親切にも原文にない「側面掃除などに使う」という表現を添えて説明してあるが、その説明自体が間違っているし、ボズウェインズチェアなんて言っても、誰もわからない。それをいうならボースンズチェアである。

もっとも、英語版のbowswain’s chairは作者のミスだろう。正確には boatswain’s chair、 略して bosun’s chair とか bos’n’s chairといい、マストに登る道具の一つで、構造は訳文の通り。ハリヤードにつないでウインチで引き上げる。ヨットでは使用頻度は少ないが、いざというときになくては困る必需品でもある。<br />ちなみに swain は若者とか色男のことで、 boatswain となると、船の種類によって甲板長とか掌帆長、ボースンとなる。

長くなったが、もう一つ。

(引用)
三十フィートの高さの海水の壁が操舵室に降りかかり、テスは索止めをやめ、大急ぎで命綱をつけた。凍てつくような海水にもまれ、忘却の彼方に引きこまれそうになりながら、必死に息を吸う。神様、ありがとう、ハーネスと "舳先から船尾に渡した紐" (ジャックライン)はびくともしていない。(文庫版72ページ)
(引用終)

原文はこうなっている。
A thirty-foot wall of water crashed into the cockpit, knocking Tess from her foot cleats and sweeping her into the lifelines. She grasped for air as the cold ocean wrapped itself around her, sucking her to the brink of oblivion, and then, thank God, her harness and jack line held fast.(英語版55ページ)

大波が降りかかって船から落ちそうになって間一髪助かった場面の描写だが、「テスは索止めをやめ、大急ぎで命綱をつけた」は、波で足をすくわれ、ライフラインのところまで押し流された、とするのが正しい。忘却の彼方というような詩的な表現ではなく、板子一枚下は地獄という、その海にあやうく落ちるところだったのである。

大急ぎで命綱をつけたのではなく、すでに命綱(ハーネスとテザー)をつけ、ジャックラインに止めていて、それが持ちこたえてくれたから助かったのである。

ここはライフラインを命綱と解釈したところに誤訳の根がある。

というのは、ライフラインは一般には命綱だし、訳者が自分の体と船を結びつけておくものを指すと理解したとしても無理はないが、ヨットでいうライフラインはそれとは違う。

ヨットでいうライフラインは、船の舷側に転落防止のためぐるっと張りめぐらせてあるステンレスワイヤを指す。体につけるものはハーネス、自分の体と船を結びつけておくのはテザー(と船側のジャックライン)で、原文ではテザーとライフラインは別のものとして書き分けてあるのに、訳者はライフラインをテザーの別称くらいに思って無理につじつまをあわせようとして失敗している。

ヨットのライフライン、ハーネス、テザーを写真で示しておく。

被写体は逍遥と筆者だが、人様にお見せできるようなものでもないので首から上はカット ^^;)

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右の舷側に平行に張ってある二本の白く見える水平の線(白のビニールコーティングしたステンレスワイヤ)がライフライン、上体につけている黒いものがハーネス、青い平織り(テープ状)の紐がテザー。右手に持っている黄色のものは甲板(デッキ)に這わせたジャックラインにテザーをつなぐ金具。

もう一つ、好意的に理解しようとしてもできない誤訳の例。

(引用)
口いっぱいに海水を飲み、テスは咳きこんだ。そして舵から手を離した。(文庫72~73ページ)
(引用終)

原文はこうなっている。
Tess coughed up a mouthful of seawater, then pulled herlself back to the wheel.
(英語版55ページ)

「舵から手を離した」というのはまったく逆で、大波をかぶってあやうく落水しそうになり、海水を飲んで咳きこんだものの、なんとかコクピットに戻って舵を握った、というのが正解。

べつに訳者や出版社に恨みがあるわけではないし、あらさがしをしたいわけでもないので、これくらいにしておくが、スピリチュアルやファンタジーが好きな人は本を読んでも楽しめるだろうが、ヨットというキーワードに引かれた人は映画だけにしておいたほうがよさそうである。

『きみがくれた未来』ベン・シャーウッド著 尾之上浩司訳 角川文庫 平成22年11月25日初版発行
"The Death and Life of Charlies ST. Cloud" by Ben Sherwood, Picador, 2010, ISBN 978-0-330-52028-7

[2010/12/05]